黒 色 絵 本
ランプのわずかな明かりだけが、この暗闇を照らしていた。空気中に漂う埃が白くその光を反射している。
静かだ。階段を降りる靴音が響く。
ここは何時来ても埃っぽいところだと思う。でもいくら掃除しても埃が溜まっていく。これが雪ならいいなと思―――ったが、それだと寒すぎる。やっぱり雪もいやだなと思った。雪は綺麗だけど、寒いのは嫌いだ。だから冬になると私は窓越しに雪を眺めることが多い。時々、外へ出て雪を見ることもあるけれど、その時はいっぱい厚着して帽子を被って手袋もマフラーもして、外でも寒くないようにする。
ゆっくりと薄暗い階段を降りていく。一歩一歩を確かめるように。
ランプの明かりはこの階段を降りるには十分なものであったが、それでも階段の隅々まで照らし出すまでには至らない。この間も急いで駆け下りた時に、踏み外して転げ落ちたばかりだ。否が負うにも慎重になる。
階段の終わりをしっかりと確認すると、もうひとつの明かりのもとへと近づいていった。
この部屋の中心に大きな机があり、その天井には今手に持っているランプより一回り大きなランプが吊るされている。さらに、その机を囲むように本棚が部屋中に配置されている。
本棚に沿うように歩く。もうひとつの明かりが足元を照らす辺りまでくると私に気づいたらしいこの部屋の主は私の方を振り向きながら「どうしたの」と優しく問いかけた。
「うんん、べつに」
手に持ったランプを机のすみっこに置くと、ちょっと退屈になってと付け加えた。
先生の座る椅子のとなりに立つと、机いっぱいに広げられた本たちを覗き込んだ。そこには私には読めない文字や数式が並んでいた。
いつみてもわからない。
先生は微笑むと、むむっとしている私の頭をなでた。
まだ仕方ないさ。そういっている気がした。
先生がまた広げられた本たちに向かい始めると、私は後ろにある本棚へと移動した。
この部屋の本棚は様々なジャンルの本で埋め尽くされている。しかし、ジャンルごとに整理されていないため、例えば『外来種の生態系にあたえる影響』と『超時空説』の間に『黒魔術から始める恋愛成就』が挟まれるといったおかしな状態になっている。それでも、この部屋の主が困らないのは部屋にある本の配置すべてを記憶しているからであり、いつも使ったものをどこにやったのか忘れてしまう私としては羨ましい限りだ。
目の前の本棚から一冊を手に取ってみる。
『ヴィネール理論』
がっしりとした外装だった。表紙に使われている金メッキの装飾はくすんでおり、所々がはげかかっていた。
本を開き、中に目を通してみると、やはりタイトルと外装に見合うくらいに難解な本だった。
そこにあるのは大量の文字の森とわけのわからない数式ばかりだった。
ぎっしりと詰め込まれた文章としばらくにらめっこするも、降参せざるを得なかった。
惨敗だった。
もう少し読みやすそうな本はないかと思い、隣の棚へ移動した。
そして、また目に付いた本を手に取ると、それを開き、それを閉じ、また隣の棚へ移動し、そこでまた違う本を開くとその本を閉じてまた―――と、それを繰り返していった。
すると一冊の本が目にとまった。正確に言えばその存在に気がついたといった方が正確かもしれない。それはランプの明かりから逃れるように、そこに在った。
それは僅かな影の中にあり、その姿は闇にまぎれるためにあるかのように真っ黒な背表紙をしていた。装飾はおろか、名前すらなかった。
それを手に取ってみると、ズッシリとした重さは他のものと変わらなかったが、その姿は異質だった。背表紙と同様にそこにはタイトルなどなく、外装すべてが黒で覆われていた。
中を開いてみても、それは黒一色だった。
真黒。
真黒。
真黒。
真黒。
どのページを開こうとも、その姿が変わることはなかった。
「なにこれ」
私は思わず声をあげてしまった。
その声に反応してか、先生は椅子に腰掛けたままこちらに振り向いた。
私の持つそれに目をやると、やはりといった表情を浮かべた。
「なんですか、これ」
私が先生にそう問いかけると、先生はやさしく微笑み「何だと思う?」と私に問い返した。
少し困惑しながら私は「本、、、ですよね。一応」ページをめくりながら答えた。
「そうだね。確かに本だと思うよ」
「思う―――ですか?」
私は妙な引っかかりを感じた。
「そう。形状からいってもそれは本であるとみて間違いないはずだ。でも、それは見ての通り黒一色に覆われていて、とても本の機能を果たしているとはいえない」
先生はそこで芝居がかったように腕を組んだ。
「では、それは何か。そうなったら自分自身で決めるしかない。それはそれでしかないのだからね」
先生の表情は、どうかな?と私に問いかけているかのようだった。
私はもう一度、この本に目を落とした。